平家屋敷民俗資料館 三好市西祖谷
国盛の来訪を拒否した喜多氏とは合戦になり、喜多氏を滅ぼした。
国盛は大枝にしばらく滞在していたが、阿佐常陸守の招きにより阿佐に移って定住する。
一方、安徳天皇を奉じている別働隊は、麻植郡から石立山へ護衛して行き、そこに暫く待機していたが、国盛が祖谷を平定したことを聞いて祖谷に入った。
久保大宮の樹木が茂っている所を通るとき梢を倒したので、その場所を「鉾伏せ」という。
安徳が装束を着替えた石を、「装束石」という。
谷を渡る時、安徳を手渡しした所が、「皇上の手橋」。
これらの遺跡は、現在も東祖谷の久保にある。
おかしいぞ?
『平家物語』では、平国盛(教経)と安徳は壇ノ浦の戦いで敗れたとき、入水したはずだ。
ところが『落人伝説』では、二人とも屋島の戦いに敗北した際に、祖谷に逃れて定住した。
安徳はほぼ1年後に亡くなっているが、国盛の末裔は今も『阿佐家』として存続し、平家の赤旗が残っている。
私自身、その赤旗が夏の抜けるような青空をバックに樹間にはためくのを見上げた記憶がある。
ついでながら、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』によると、教経は一の谷の戦いで義経軍に討たれている。
いったい、これは?
……
○能登殿は、早業(はやわざ)や劣られたりけん、やがて続いても飛びたまはず。
教経は早わざでは劣っていたのか、お飛びにならない。
○今はかうと思はれければ太刀・長刀海へ投げ入れ、甲も脱いで捨てられけり。鎧の草摺(くさず)りかなぐり捨て、胴ばかり着て大童(おほわらは)になり、大手を広げて立たれたり。
そして、今はこれまでと、太刀と長刀を海に投げ入れ、甲も脱いでお捨てになった。鎧の草摺りをかなぐり捨て、胴のみを着て、ざんばら髪で大手を広げて立っておられた。
○およそあたりを払つてぞ見えたりける。恐ろしなんどもおろかなり。
その姿は、近寄りがたかった。恐ろしいどころではない。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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