能登守教経 (国盛)
平教経(国盛)にまつわる落人伝説
寿永4(1185)年2月19日、平家は屋島の戦いで義経軍に敗れ、生き残った一門の者たちはそれぞれ各地へ逃れ、それらの場所に住みついた。
そして、今に至るまで彼らの末裔がそこに暮らしている。
徳島県の祖谷(いや)地方に伝わる伝説によると、平教盛(のりもり)の次男・教経(落人伝説では以後、国盛と表記)は、宝剣と安徳天皇を奉じ、手勢わずか百余騎を率いて屋島から陸路を東に逃れていく。
水主(かこ)村(香川県大内町)にしばらく潜んだ後、大山(阿讃山脈=讃岐山脈)を越え、吉野川をさかのぼって、山深い祖谷地方の大枝岩屋に身を隠した。12月の大晦日であった。
翌朝,名主の喜多氏の屋敷へ行くと,元旦の酒宴を催していた喜多氏は国盛の立ち入りを拒んだ。
ちなみに、祖谷地方は、那須大八郎と鶴富姫の椎葉村と、合掌造りで有名な世界遺産白川郷とともに、日本三大秘境を形成する。
…… ……
○「さては大将軍に組めごさんなれ」と心得て、打ち物茎短に取つて源氏の船に乗り移り乗り移り、をめき叫んで攻め戦ふ。
「大将軍と組めというのだな」と、太刀を短く持って、源氏の船にいくつも乗り移って、大声をあげて戦う。
○判官を見知りたまはねば、物の具のよき武者をば、判官かと目をかけて馳せ回る。判官も先に心得て、表に立つやうにはしけれども、とかく違ひて、能登殿には組まれず。
教経は義経の顔を知らないので、立派な身なりの武者が義経だろうと目星をつけて走り回る。義経も心得ていて、前線で戦うようにはしていたが教経とは組まなかった。
○されどもいかがしたりけん、判官の船に乗り当たつて、「あはや」と目をかけて飛んでかかるに、判官かなはじとや思はれけん、長刀脇にかいばさみ、御方の船の二丈ばかり退(の)いたりけるに、ゆらりと飛び乗りたまひぬ。
しかしどうしたことか、教経が義経の船に行きあたった。「あれか」と飛び掛かかると、義経はかなわないと思って長刀を脇に挟み、2丈(約6m)離れていた味方の船に飛び移った。
…… 原文に忠実な訳ではありません ……
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平家物語の群像 平教経②判官を見知りたまはねば
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