平維盛の都落ち 北の方と六代との別れの場面
文覚の厚意は厚意として、六代の生殺与奪はひとえに源氏の棟梁である頼朝の胸先三寸にかかっている。
どうなることだろうと案じられるが、20日間命が延びたことで、建春門院新大納言と乳母は、ひとまずほっとしていた。「これも、長谷寺の観音様のご加護ではないでしょうか」
だが、20日間が過ぎても、文覚は都へ戻ってこなかった。
時政は、「約束の20日間が過ぎた。頼朝殿のお許しが出なかったのではないだろうか。都に留まってばかりもいられない」 と落ち着かなくなった。
斎藤五宗貞と斎藤六宗光も、心配で大覚寺に赴いた。
「聖はまだお戻りになりません。北条時政殿は、近く鎌倉へ下向されるようです」 と報告すると、
建春門院新大納言は自分に言い聞かせるように、「文覚房が、あれほど頼もしげに鎌倉へ向かわれたのですから」
だが、内心では、どれほどつらい思いをしていたことか。乳母は、泣いている。
「鎌倉へもどる時政殿に、文覚房と出会う所まで六代を伴ってくれるよう、だれか口添えしてくれないものか。もし、文覚房が六代の命を頼朝殿からもらいうけて、都へ向かっていたら。もし着かれる前に、六代が斬られたら、余りにむごい」
「六代はすぐに、殺されるのか」
「若君のお世話をしていた北条の家の子・郎党が、名残惜しそうに念仏を唱えたり、涙を流したりしていました」
「それで、あの子の様子は」
「人がいる時は、なんでもない様子で数珠を揉んでおられます。しかし、誰もいない時は、袖を顔に押し当てて、涙に暮れておいでです」
「今夜限りの命と思って、さぞかし心細いことでしょう。ところで、そなた達はどうするのですか」
「どこまでも若君のお供を致します。あの世に逝かれたら、遺骨を頂いて高野山に納め、出家して菩提を弔います」
冥土の土産に、六代にAKB48を聴かせたかった!?
お姉さんたち、とても楽しそう。およそ800年後の今、消費税が少々上がろうと、子供の命をつけ狙う者はいない。
「そろそろ、お帰り」 といわれて、ふたりは泣く泣く帰っていった。
文治元(1185)年12月17日早朝、時政は六代を伴って都を発った。斎藤五宗貞と斎藤六宗光も、御輿の左右に付き添う。
時政は、替え馬に乗っていた武者を下ろして、ふたりに、「馬に乗れ」 と勧めたが、「最後のお供なので、つらくありません」 と馬には乗らず、血の涙を流して裸足で歩きだした。
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平家物語の群像 文覚⑰北条時政、六代を伴って都を発つ
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